祖母葬儀無事終わる

私も立場柄色々な人の葬儀に参列してきたけど、実のところこんなのは
始めてでした。

結局、住職もいなく、葬儀屋さんが案内するにとどまり、親戚の人
以外が参列するという事はないものでした。
祖母と20年ぶりの再会は、火葬炉の横にある小さい小部屋の冷蔵
安置所でした。もともとふくよかな祖母でしたが、記憶の中の面影
は大分薄れてしまっているものでした。
ある親類が、僕がまだ小学校に入るか入らない前のころ、祖母と
まだ生まれたばかりの従弟(叔父の長男)と3人で撮った写真を
持ってきた。それを棺に入れて荼毘にふす事を母親が提案したが、
それを私は強く拒んだ。悪いけど、それはやめてくれ!と
その写真はとても良く写っているので、とっておいてくれと願い出た。
でも、祖母が本当に、私と従弟を可愛がってくれて、二人の孫に囲ま
れ幸せな表情をしていた事に、いかに彼女が僕たちを愛してくれたのか、
それを思い起こすと涙が止まらなくなった。本当なら、妻子も会わせ
たかった。それが出来なかった事の悔やみで、祖母に申し訳ないという
気持ちも同居した。

火葬炉の扉が開き最後の別れ。このシーンは生きとし生きるものにとって
最大に辛い瞬間だ。発する音は全てが鈍い。本当に嫌な瞬間だ。

待合室で、従弟が挨拶をする。実は彼の父親は3年前に他界した。
だから彼が当主として挨拶した。本当に立派な挨拶だった。
そして祖母の次男も挨拶をした。実は長男と次男でいざこざがあった。
その二番目の叔父が、「私と兄貴は、母を苦しめた親不孝者だ。今
申し訳無いという気持ちで一杯だ。」と
涙を流して言った。わたしも、その言葉に涙が出た。

私も親不孝な事をしたから、同調してしまったのだ。

収骨。
とても立派な骨をしていた。大正時代に生まれ、5人の子を産み
第二次世界大戦中祖父が旧日本海軍に「赤紙召集」され、祖父が
出兵中子供を守りきり、そして5人の子供全員を大学送った、
気骨な強い母親の骨そのものだった。

収骨が終わり、私と従弟はすぐに帰らなければならなかったので、
祖母の遺影をクルマにのせて、「3人」で斎場をあとにした。

色々話しをした。彼は母方の家の当主、わたしもいずれは当主になる。
血のつながる者同士本当にこれから助け合って仲良くやっていこう。と。

実は彼の勤める会社から大きいオーダーをもらっている。
本当は親戚づきあいとビジネスとをごちゃ混ぜにしたくはないの
だが、彼も以前は台湾に住み一時期台湾人の彼女と同棲生活
もしてた。北京語もしゃべれるので、そんな話しを車中でして
盛り上がった。祖母の遺影も乗っていたからきっと祖母も僕ら
従弟同士の会話を楽しんでくれたに違いない。

さあ、僕は明日から中国だ。彼も入り違いで中国にいくそうだ。
本当なら向こうで落ち合いたいのだが、それはスケジュールの関係
で出来ない事になったが、またいずれというところで、彼を
とある駅で降ろし、彼は羽田空港に向かった。

やっぱし、親戚とはいいものである。

親戚は仲がわるかったが、まだまだ時間がある。皆が本当に大人に
なれば、また盆暮れ正月と集まって飲めや食えや歌えやが復活できれ
はいい。祖母もためにも、残された者たちがそうする事が、何より
も供養になるのだから。

今夜、各々が今日の葬送を振り返り生きていく事の大切さ。
生きれる事のすばらしさをもう一度心に噛み締めてもらいたい。