この国に良心は既に消えたのか?

先週は、女子十二楽坊二胡組の東京FM・日本橋スタジオでの電撃的マチネーライブで
凄く心が和んでいて、色々今年は辛い事があったけど心に薄日が差してきたような気持
ちで週末を迎えようとおもっていたのだが、京都の学習塾であった女子児童殺傷事件で
そんな気持ちは儚くもぶっ飛んでしまった。
またもや、大人からみたら弱者であるはずの、小学生児童の命が奪われた。
いまさらその女子児童がどのような状態であったかを書き記す必要もなかろうが、栃木
での事件のように、とうてい人間のやる事ではないような殺され方だ。

犯人は同志社大学法学部に在籍していたこの塾のアルバイト講師。同志社といえば、
西の名門(関関同立)の一翼を担い、キリスト教主義に基づく大学。しかもこの者は「法
律学」を専攻していた。建学の精神なるものは彼奴には何ら無意味のものだったのだな。

なぜ強者が弱者をこうする事が増えてしまったのだろうか。色々ある。

話がひやくしすぎるかもしれないが、
1)今日の企業のあり方だってそうだ。たった一部の強者を生かさんがために多くの弱者を
平気な感覚で踏み潰す。
2)お金さえあれば、すべて自分の手中に収める事が出来る。たしかにそれが資本主義の原
則だろう。しかし、それはあくまでも健全なつ投資ではなく、一過的なギャンブルのような
もの。そこに働く者(弱者)の気持ちは一切考えない。
3)姉歯騒ぎに代表される、売上至上主義、利益追求を達成させれば、法律に逸脱しようが
なにをしようがばれなきゃいい。

しかもこうした流れは現在進行形で今後また何が出るかわからない。
根底には人が人を思いやるという事が忘れ去れているのだ。

ついこのまえの20世紀終わり頃、「世紀末」「世紀末」とやたら騒いだ時期があった。
天変地異が起こり、キリストの来臨すらも期待した熱心なクリスチャンもいたとか。
まあ、ちまたではあらゆる一種異様な現象を総称して「世紀末現象」と言っていたよう
ではあるが、真の意味での世紀末とは今なのではないだろうか。

まさにそれはイントレランス(不寛容)そのものだ。